昭和44年4月26日 朝の御理解
御理解第8節「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ」
今日は、こっちあの、今日の御祈念中に、★「通天」ということを、字で頂いた。通というのは、通うという字ね、通るという字。通町の通りですね。天は、通ずる。天、天に通ずるとこう。「通天」。 大阪に通天閣というのがありますね。あの通天です、通天。
いわゆるその、神様に通うということだと思うんです。神様に通うということは、その神様に通う、一つのルートというものが、氏子の願いが通じ、神の願いが通じ、通じ通じ合うということだと思うんです。
ですから、そういうように、通天のおかげを頂くということには、どういう信心させて頂いたらよいかということになる訳ですが、この御理解八節を頂くんですよね。「子供の中に屑の子があれば、それが可愛いのが親の心じゃ」と。
ただしこれは、親の心は可愛いもんじゃと、可愛いとこういうだけではね、これは親に心配をかけておるというだけにすぎんのです。ね、例えていうなら、勉強の出来ない子がおりますか。そすと親は、この人は本当にこんなことで、先々どうなるじゃろうかと心配するでしょうが。どうしてやることも出来ないでしょう。
ね、そこで、勉強せい、勉強せいとこういうわけなんです。ね、ここんところ、神様は屑の子ほど可愛いと仰るから、あー、もう、まぁ不信心であったり、した方がかえって神様に可愛がられるんだといったような、まぁ言い方をする人があるんですけど、決してそうじゃない。
それはただ、神様に、親にいやゆる心配をかけるということ。それが頭がよかろうが、勉強が出来まいが、他所の子だったら対した心配しないですね。自分の子だから、先々どうなるだろうかとこう心配する。それが可愛いとこういう。
屑の子があれば、それが可愛いのが親の心。あの人は黙っておっても勉強する。成績も良い。この調子でいきゃあの子は、大体安心だと、親が安心する。ね、信心しておかげを受けてくれよと言うことは、そんなことだと思う。
しっかり勉強して、しっかり学問を身に付けておけよと。ね、ということ。信心しておかげ受けてくれよと。「不信心者ほど神は可愛い」と、そんならこりゃ、ちったあんまり熱心に信心しよると神様から可愛がられんというようなことではないことを、まず知らなきゃなりません。
同時に、ここ私が何時も、説きますところは、ね、いわゆる不信心者ほど可愛いということはね、我屑の子であるという自覚に立てということも申します。そこに神様のいわば、可愛いという、この本当の意味でのおかげに通ずる可愛いがそこから頂ける。
我屑の子という自覚。自分というものを見極め、自分というものが分かってくる。人のことはなかなかよく分かるんですけども、なかなか自分のことは分からない。本当にですね、人のことは分かるけれども、自分のことが分からないんです。
よっぽど最新の注意を、自分の心の上に、自分の形の上に見ておきませんと分からない。何時の間にか、何処にか、その思いあがりが出来ておったり、ね、人に、いわば鼻つまみされるよなものが、自分の上に出来てきておる。そして、本人その人は、それをよかつのように思うておる。
そこでそこんところはですね、本当に私は思うんですけれども、本当にあのお徳を受けなければ、自分は本当に分からんのじゃなかろうかとすら思うんです。
ほれでも、私自身それを、感ずるんですけど、私がもし神様にこうして、一々お知らせなんか頂かなかったら、あせ何処まで思いあがるだろうか。どんなに気障な私になるだろうかと何時も、それをもうはっとするほどのことがります。
はーこういう時に神様がほらほらと言うて気を気付けてくださる。教えて下さる。だから私はそこんところがある意味合いでは慎めたり、はーこれはちょっと道を間違えよるぞという風に分かるけれど、もしこれが自分で気が付かなかったらどんな風に自分、私は曲がっていくやら、どんな風に私は、まぁいうなら大体が人間が気障に出来てますから、気障になるやら分からんと思うような事があるんです。
ですから、そういうものに触れて行かなければ出来んのじゃないかと思うほどに難しい。そこでその、自分の姿というものは、自分の周囲に起きてくる様々な問題を持ってそれを自分の鏡とせよとこういうことになる訳なんです。
ね、例えば子供の姿を見て、もうこの人はどうしたこっちゃろうかと思うような子供がおるなら、その子供の姿そのものが私の鏡なのだという頂き方です。ここに難儀な問題が起こっておるならです、それが私の鏡なのだ。私の実態なのだ。
家内が言うこと聞かんなら、家内が聞かんのじゃない、それが私の鏡なのだ。ね、だから、そこには、厳しく自分というものを見ること出来るんですね、確かに。だからそれと、例えば私が申しますように、神様からお気き付けを頂いてですね、我にかえるというかね、はっと自分で気付かせてもらって、例えば私なら、私が大体人間が気障ですから、気障になっていこうとするところを、そこをまぁ当たり前、要約そう頂いて始めて普通の人と変わらんぐらいなことしか出来ない私ですけれども。
もし、私が神様にお知らせも頂けなかったら、私はそうな、変、まぁ変な信心が、まぁ出来ていくだろうという風に思うんです。
そこで、親、屑の子がおれば、我は屑の子が、ほど可愛いのが親心であって、いかに親心があったからというて、そりゃおかげには繋がらないということ。ね、仕事もなんにも出来ない。例えば技術一つ身に付けてないから親が心配するだけでしょうが。
ところが、ならそこに一つの技術なり、(ず?)というものを身に付けますとです、あの人は何処へよっても、あの仕事をしきる、あの技術を身に付けておるから、大丈夫だと安心。そこで技術を身に付けておってくれよということ。信心しておって、してくれよというのはそれなんです。
そこにその、親の安心があり、神様のお喜びがあるわけです。信心して、そこで、その信心しておかげを受けてくれよというその信心は、どういう信心でなからなければならんかというと、「通天」。天に通ずる、天に通うような信心でなからなければならんという事になる。ね、神様に通うような信心。
大体合楽で信心の稽古をしておる人達は、確かに、自分、このある程度自分というものを見極める目を持っておる。まぁいうならば、表よりも裏を大事にする傾向が強いですね。合楽の人は。
表面よりも裏を大事にする傾向が強い。これはやはり、ここの御理解力のおかげだと思うです。ね。影と日なたの心を持つなよと仰るその、むしろ影の方のところを大事にする。それは、神、おかげを受けなければならんという意欲が強いからでもある。
ですから、神様のいうなら、神様だけがご承知の世界に生き抜くことが信心だといったような、思い込みが強いからそれである。いわゆる表よりも裏を大事にしようと努力するところが、さすがに有り難い、合楽の信心は、そこは、日々の御理解がそういう風に生きてきておるんだと思うんです、けれどもですね、その代りにね、その裏を大事にしよるけれどもね、表の方を大事にしない、悪い傾向があることですね。
人に見えるところ。見えるところをですね、大事にしない。まぁ例えでいうと、まぁよくお金持ちさんの中に、その身形構わないという人がある。おなかの中はお金はいっぱいあるから、私の以前村にそんな人がありましたね。
もう本当に何処の百姓のおじいさんじゃろうか、ちいうごたる格好して、お弁当さげちから、毎日その福岡通いをしなさる。株を沢山もっておられますから。何処ん、そのまぁ、百姓、(じい?)じゃろうかちうごたるな格好してから、福岡まで行かれる。
もうその当時、福岡まで行くちゃちょっとその、まぁ洋服なんかあんまり着てない時ですけれども、やはり(いっちょうらん?)の洋服を着たり、(いっちょうらん?)の着物を着たりして皆が行く時代ですよね。今福岡といったらそこまでですけれども、何十年も前ちゅったらそうでした。それに福岡までどうにもう、ちょいとそこまで行くごたる格好。もういうなら普段着のような格好で福岡へ行きます。しよんなさる。
ほれでよくその、(新前?)の銀行員なんかがですね、銀行へ行ってから、まぁ軽く見る、されそうですね。ところがなかなか、とことこ入っていって、もう頭取さんとこうやって話しござると、頭取さんがぺこぺこしござるもんじゃから、はっと思うてその、その若い銀行員さん達が、あただにその、まぁお茶を持って来たり、(機嫌?)をとったりするといったような話しを聞いたことがあるんですけれどもね。これでも私はどうかと思うんですよね。
あるものが何時もお腹にいっぱいあるもんですから、もう身形なんかどうでも良い。だから、それにやっぱりつり合うたもの。合楽の場合まぁ、例えて言うと、まぁ(にさんだん?)その、お金があるけん、ね、信心があるという事なんです。
誰よりも信心を、しっかりしたものを頂いておるから、形なんかどうでも良いというように、形の方をおろそかにする傾向があるですね。
今朝私、それもご神前でですね、★お太鼓を結んでおられる。(ねし?)こりゃまぁここ信心の帯をまねく、帯は。それで後ろの方のお太鼓のところの格好を鏡を見てから一生懸命こうやってしよんなさっとです。
まぁそれが、なら立派に出来とるとは思われません。しだごじゃあるけれども、とにかく後ろの方だけは鏡を見て一生懸命こうしよんなさるばってん。前の方の、その帯の具合やら、そのこう裾の乱れておるところの具合やらは、もう鏡を見よござらんというような感じなんです。
ね、だから、ははー、合楽の人達、ここんところはその、本当に出来よらんけれど、信心は神様だけがご承知の世界に生き抜く事だという思い込みは持っておるです。だから、表よりも影の方をむしろ大事にしなければならんという事は知っておる。そしてそれに、まぁ勤めてもおるおるという事。
ね、けどもその、勿論大事な事ですけれどもね、やはり前の方も大事にせにゃいかん。私の心が誰ん分かりゃせん。神様だけが知ってござると。と、まぁいうようなことではいけない。人も、人も知ってくれる、神様も知って下さる。ね、いわゆる神徳人徳というようなものが(かね?)そろうていかなきゃいけん。
ね、先日の久留米での、佐藤先生のお講話の中にも、三代金光様とある先生の一問一答のような話があっておりましたですね。金光様、あー、昔の偉い先生方、ね。(いわば?)どうしてあのようなお徳を受けられたのでしょうか。あぁいうお徳を受けるにはどういう信心させて頂いたらよいでしょうかというて、まぁ金光様にお伺いをされたところが、金光様が仰っておられます。
ね、「あの方達は信心の苦労が違います」と仰った。信心の苦労が違うと仰る。ならその信心の苦労というのは、色々ありましょうけれどもです、いうならばむしろ表よりもむしろ裏の方を大事に大事にされていかれたという事だけであってその、表の方はいい加減にされたという事じゃないと。
ね、むしろ、着物でいうならばです、裏の方に金をかけられたと。チラチラっとこうしか見えんような、その裏に良いものを使われた。というて、表は汚れておるというのじゃない。表も立派だけれども、より立派に裏の方をされたというだけのこと。信心の苦労とは、このことなの。
それが通天。神に通じたんです。ね、裏さえ立派であればいいと。どうもその、その辺のところが気障なる、ところが、合楽の信心には感じられます。
あるまぁ遊び人の人が、(一杯や?)で飲んだ。金が足らん。そこで(女中さん?)に自分の席代をぬいてから、これを室長に持っていけと。(女中?)が怒った。席代どん持っていってどうするんですかっち。まぁつべこべいわんでから、そのそれをを持っていけ。というて、裏をひっくり返したところが、裏のチャラチャラ(しゃりたに?)に金がついてますよね、それが純金じゃったげな。
ね、そういうことを、をその、を気障というのです。だからこれではね、いかんのです。ね、裏を大事にするというてもそれではいけない。いわゆる表よりもより裏の方が大事だと、いう事、表を粗末にしてよいという事じゃない。
だから今日の、この「信心しておかげを受けてくれよ」と、ね、ならどういう信心を私共はさせて頂いたらよいかと。ね、「屑の子ほど可愛い」というのは、ただ勉強の例をとりましたように、勉強が出来ない。それを親が見て、この子は将来どうするじゃろうか、何になるじゃろうかと心配をするというような意味であって、ね、可愛いと思うだけで親としてはどうにもしてやる事、そのすべがない。
そこで、どうぞと、いわんばかりにです、ね、「信心しておかげを受けてくれよ」と。「信心しておかげを受けてくれよ」とこうある。そこで私共がなら本気で勉強する気になって、勉強の成績がどんどん上がってくると、親が安心する。
ね、そこでどういう事かというと、その神様がおかげを下さるというのじゃなくてですね、自分の実力を持っていけよ、信心の実力を持っておかげを受けていけよという事なんです。
ね、四神様のお言葉の中にもありますように、「おかげは神から出ると思うな。氏子の心から出ると思え」とこう仰った。それなんです。ね、自分の心からおかげがどんどん出てくるようなです、いわゆる和賀心ですね。そういう心を本気で極めていけよという事なの。
どうぞお願いします、どうぞお願いします、という例えば、信心ではです、親が手を離したらもうお終い。ね、「信心しておかげを受けてくれよ」と。勉強して学問身に付けてくれよと言うと同じであるが、それはどういう事かというと、信心の実力を身に付けてくれよと。
和賀心におかげはあると仰るから、その和賀心をいよいよ和賀心にしていけよ、という事なんです。ね、それを今日私は、合楽の信心の一つの傾向としてですね、確かに表面よりも裏面の方を大事にする傾向が強い事は結構、有り難い。
ですから、本当に例えば、裏面を大事にしなければならん。ね、同時にです、なら表面は、お粗末で良いか、それでよいかという事じゃいけない。ね、その例えば、表面とてもやはり裏につり合うたというかね。大事にしていけれる信心。
そういう信心を心がけさせて頂くところから、神様に通ずると。神様に通う信心が生まれて来るとこう思う。
今日の御理解八節は、そういうところが今までの、頂く御理解と大変違っておると思うんですがね。信心しておかげを受けてくれよということは、信心の実力を身に付けていくということだと。
信心の実力とはどういうことかと言うとです、なるほど表よりも裏、ね、人が見ておるところよりも見ていないところ。といったようなところに力を入れねばならない思い込みは、皆さんは持っ、案外持っておるけれども。それが、(八重もすると?)気障っぽくなってきたりする。
裏も大事にしなければならないけれども、やはり表もおかしくないような程度には信心を進めていかなければならん。表から見ても裏からみても、いうなら、人が見ても神様が御覧になっても、というような信心。そういう信心が、私は神様に通う信心だというふうに思うのです。
この度のご大祭の反省を、私は、えー、本当にこの度のご大祭は、いうところがなかったという風に申しました。また事実、前日までの皆さん達のあの御用の盛り上がりぶりといい、そして実際その当日になっても、あの、スムーズなご大祭といい、こう盛大なご大祭、にぎやかなご大祭といい、もう私と教会長としては言い分がなかった。いう所はなかった。
あそこにげはましっとこうしなければならん、いかじゃたのというところがなかった。けれどもほんなら、これはもうこれで良いというのでは、さらさらないということ。ね、いわゆるこれで済んだとは思わん。
なら神様にあれだけのご大祭が出来たから、もうこれで済んだとは思いませんという事ではない。人間、凡夫の事であるから、何処にお粗末があるやら、御無礼があるやら分からんから、そこはまた、(ひら?)にお許しを頂かなければならないとこであると同時にです、ね、ならこれを私自身、あのお祭りを奉仕させ、中心であった私自身としてはですね、お榊の玉串に現れた、それを私の信心。私の反省の焦点として、私はおかげを受ける。
ね、その時にだから、私はその、これで良いという、それを考定したわけでもなからなければ、それではいけないと否定したのでもない。ね、それけんその、教団で言われる、難しい言葉の中の一つですけれども、御道の信心は、ね、考定もなからなければ、否定もない、といわれるところ。
ね、例えばそういう信心。ね、もういえと、言うところがないというほどしのおかげを頂きながらもです、ね、ならこれで良いとは思うていない。ね、して、そして、そこにまた深い反省を持って、その次ぎの信心を極めていこうと、をしておる。私は信心して、おかげを受けてくれよと仰る信心とは、そういう信心だと思うのです。
ね、それにはやはり、神様がご承知の世界に生き抜かせて頂いて、そこんところは立派にいきよるということによって、おかげを受けるならです、ね、やはりその、それが形に表れる来る。表面の方。
ここのところも、誰が見てもおかしゅうないという、私は、そういう信心を求めて信心をして行きたい。そこに私は御理解八節に、天地の親神様のお心を、教祖はこのように御理解下さってある、「子供の中に屑の子があれば、それが可愛いのが親心じゃ」と仰っても、それは可愛いと思われるだけであって、神様とてもどうにもお出来にならないのだと、ね。
神様は不信心者ほど、神が可愛いというのは、ほんなら不信心者になったほうが良いといったような、まぁひねくれた考え方ではなくて、ね、ここに我不信心者としての自覚、本当にそういう自覚にたって、いよいよ、自分のこれからの信心を進めていかなければならない。
信心してとこう仰る。ね、そこんところに、信心の焦点というものを、置いて、おかげを受けていかなければならん。そこで受けられるおかげというのは、決して神から出ると思うな、氏子の心から、おかげは出てくるのぞ仰る、そういうおかげを頂けるようになった時に、神様が始めて安心して下さるということになる。
ね、それを私は子供の勉強の例をとりました。ね、勉強せよ勉強せよというても、勉強しない。通信簿はもう本当に、こげな事でどうするか。先々この子は将来どうなるじゃろうかと、親が心配をするという事は、本当にわかいそうだというそれだと。ね、神様に(ふえん?)をかけられる。神様にご心配をかけるというようなことであったはならん。
そこで、ね、本気一番、本気で勉強しようという気になって、勉強を身に付けていくところから、親の安心がある。その勉強をいよいよ身に付けたところからです、ね、受けられるおかげ、天に通う、通天のおかげ。そこから、まぁいうなら、その人の信心の実力という、その自分の心から、次々と練り出していけれるおかげを頂かれるようになった時に、ね、信心しておかげを受けてくれよ、とこう仰る、神様の願いが成就する事になるのです。どうぞ。
梶原 佳行